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 保坂和志氏が4月に大和書房から出版した『考える練習』が好調な売り上げを見せている。「論理に縛られ“テンプレート化した発想”から抜け出す」ための同書は、ひょっとするとオカルト的ななにかに通じるものがあるかもしれない。そう思い立ち、保坂和志氏にインタビューを試みた。人呼んで(というか勝手に命名)、『考える練習』オカルト版! どうぞご一読あれ。

——まず、このインタビューをお願いした際、保坂さんが西武百貨店のコミュニティ・カレッジに勤務していた80年代に、「日本のカルチャーセンターで最初に超能力(超心理学)の講座を企画した」というエピソードを知り、驚きました。しかも講師は、超心理学研究者の井村宏次さん。井村さんといえば超常現象や気の研究の大家ですよね。

保坂和志(以下、保坂) あの当時、井村宏次さんがチャートルズ・T・タートの『サイ・パワー』(工作舎/1982年)という本を翻訳したり、『サイ・テクノロジー 気の科学・気の技術』(工作舎/1984年)、『霊術家の饗宴』(心交社/1984年)といった人間の意識の本質や超常現象に迫った本をいろいろと出版していた。そこで、「超能力の講座をやりたいんですけど、適任者って誰だと思いますか?」って中沢新一さんに相談したんだよね。そうしたら、「井村宏次さんしかいない」という答えが返ってきた。それで井村さんを講師にした超能力講座を立ち上げたというわけ。

——当時、超能力ブームがあったんですか?

保坂 とくにブームがあったわけではないけれど……学研の「ムー」(1979年創刊)なんかが売れていたから、オカルトに関しては多少風が吹いていたかもしれない。

■スプーン曲げの清田くんと松井秀喜

——なるほど。そういう経緯があったわけですね。では、オカルトといまの社会の関係性についてはいかがでしょうか。素朴な言い方をしてしまえば、現在、多くの人の考えのよりどころは科学的な妥当性にあると思います。科学的ではない物言いをすると、すぐにオカルトと思われがちです。そして、オカルトに対して、肯定/否定という切り口でしか語られなくなってしまっている状況があるのではないでしょうか?

保坂 それは両者に問題があると思う。オカルト否定派は頭ごなしにオカルトを全否定してしまう。一方、オカルト肯定派のほうも極端な実例ばっかり出してきて、相手を説得するより自分が信じたいほうが先に立っているように見える。だから両者は真面目に交流しようと思ってない。でも結局、オカルトを肯定する人々も否定する人々も、比べてみると、同じように「なにか」を信仰しているんだよね。

——科学信仰とオカルト信仰。

保坂 そう。オカルト否定派、つまり科学の立場にいる人の問題点は、肝心の証明を自分ではできないことにある。アインシュタインやニールス・ボーアなんかを引き合いに出したって、自分自身で証明ができるわけではなくて、ただ入門書レベルの大雑把な知識しか持ってない。「量子の奇妙なふるまい」みたいなことを精密に理解できてる人なんてほとんどいないでしょ? だから、科学も信仰でしかないんだよ。

 よく科学者が超能力者にむかって「同じことを何度でもやってみろ」って言うでしょ。実験は1回こっきりじゃダメで、何度でも同じ結果が得られないと認められない。それと同じ発想で言ってくる。スプーン曲げの清田(益章)くんが潰されたのも、「テレビのカメラの前でやってみろ」って言われたのが原因。でも、そういうことを言う人たちがわかっていないのは、たとえば、松井秀喜に「160メートルのホームランを打ったことがあるなら、ここでもう1回打ってみろ」って言っているのと一緒なんだよ。そこに気づいていない。科学の立場にいる人は、何度でも同じことができると信じている。清田くんだって、よっぽどコンディションを整えないとスプーン曲げなんてできるわけないじゃん。それは松井だって同じで、コンディションがよくなければ、160メートルのホームランを打てるわけない。それで、「清田くんのスプーン曲げは嘘だった」とか騒ぐわけ。それじゃあ、「松井の160メートルのホームランは嘘だった」というのと同じだよ。科学の立場にいる人は、その程度の見方しかできないんだよ。

 芸術にしろスポーツにしろ超能力にしろ、最高の表現、最高のパフォーマンスというのは何度もできない。3日前の表現と今日の表現は絶対的にちがうもので、同じ表現は二度とできないかもしれないということを表現者たちはわかっている。

——表現というのは一回性のもの、繰り返しできるものではない。

保坂 そうなんだよね。ところが、そういうことを真面目にやったことがない人たちは理解できないから、何度でも同じことができると思っている。

■死んだ先輩の霊がコックリさんで乗り移った!!

——そもそも保坂さんがオカルトに興味を持ちはじめたきっかけはなんですか? スプーン曲げについても小説で少し書いたりしていますよね(「夢のあと」/『この人の閾』所収、『カンバセイション・ピース』、共に新潮文庫)。

保坂 きっかけはとくにないけれども、やっぱりオカルトが単純に好きなんだよ。あと、オカルト否定派がいちばん嫌いなんだよ、人間として。

——人間として嫌い(笑)。

保坂 物心ついてからの成長過程で、周囲の大人の言うことを聞きながら、「自分はこの人のようになりたい」「この人のようにはなりたくない」ということをなんなとく意識していく。そういったなかで、頭ごなしにオカルトを否定するタイプの人間と当然出会うでしょ。そういう人たちがとにかく嫌いだった。だから、あえて小説のなかでも、スプーン曲げや空中浮遊を入れたりしている。いや、自然と書いちゃうのか(笑)。そこで、「なんでこんなことを書くんだ?」と思う人は、べつに僕の小説を読まなくていいんじゃないかな、と思っている部分もあるんだよね。

——保坂さん自身のオカルト体験はありますか?

保坂 たしか『カンバセイション・ピース』でも書いているエピソードで、前の日に死んだ隣のおばあちゃんの葬式に、翌日の午後、お袋が喪服を着て行って、そのおばあちゃんちの広い庭花壇があって、それが見えるところで1人で積み木遊びをしていたら、そこの花壇を浴衣を着た死んだおばあちゃんが歩いていたんで、「ああ、そっか、お葬式とはいっても死んでないんだな」ということがあった。それがオカルトかどうかはわからないけれども、自分自身の体験としてはその一度だけ。でも、ほんとうにそういった体験すると、ぜんぜん怖くないなって思った。

 あと、僕の高校時代、コックリさんがものすごく流行って、文化祭の夜、4人でコックリさんをやっていたら、十円玉が急に勢いよく動き出した。そうしたら、前の夏に裏山で首を吊った先輩の名字が出てきたんだよ。ところが、1週間くらいあとに、同級生が「あれは俺が動かしたんだ」と言った。でも「それはちがう。お前は乗っ取られたんだ」と僕は言った。「お前は自分の意志で十円玉を動かしたと思っているだろうけど、お前は死んだ先輩に乗っ取られたんだよ」と反論した。その同級生が死んだ先輩の霊に乗っ取られたわけではないという説明はできないんだよね。

——芸術や思想とオカルトとの関わりについてはいかがでしょうか?

保坂 オカルトは、いまの社会生活では「ない」とされている。でも、社会生活で「あるとされているもの」だけで生きていたら、芸術は絶対にできない。芸術とオカルトを結びつける場合は、オカルトを題材にした小説を書くとか、そういった話ではなくて、なにかをつくるプロセスがそもそもオカルトなんだよ。そして、それが社会を変えることにつながっていく。

——社会を変えるために必要なことってなんでしょうか?

保坂 現代社会って、ほんとうに大真面目な話、軍事産業を中心とした社会になってしまっている。文房具のホッチキスだって、元々は機関銃会社が作ったという説があるくらい。軍事産業を中心とする企業が社会を利用して、国家は軍事産業を中心とする企業によって操られている。そんな社会の責任を僕たちが肩代わりする必要なんてまるっきりない。

 さらに言うと、いま限界集落といわれている土地に住んでいるのは、ほとんどが高齢の人間だけれども、もともとああいった土地は、都に住めない落ち武者とかが切り拓いて住みついたんだよ。むかしは居場所がない人たちは村を開拓した。いまだって、みんなが住む場所を自分たちでつくってしまえばいい。そうすれば、都会から安い賃金で使い捨てされる労働者がいなくなる。すると、企業はやっていけなくなるんだよ。でも、「新しい居場所をつくろう」と思わないように人々は教育されてしまっている。そんな教育なんて無視するやくざや侍みたいなアウトサイダーが大勢いたら、カルロス・ゴーンが年収10億稼ぐこともない。アウトサイダーが社会を変えていけば、ゴーンみたいなやつらの首を簡単にはねられる。考えようによっては、社会はいくらでも変革できるんだよ。

——思想や神秘主義について考えたことや、それを理解しようとしたこと、考えるというメカニズムが、保坂さんにとって小説を書くというメカニズムであると以前おっしゃっていましたよね。

保坂 そうなんだけれども、ただはっきり言えば、僕は新興宗教とか殺人事件とかオカルトを題材にした小説が嫌い。どういうことかと言うと、そういった作品は、根本的な部分でオカルトを信用していないから嫌いなんだよ。オカルト的な視点にぜんぜん立っていないし、すべて一般社会のワイドショー的な視点からしか見てない。 

——オカルトをそのままフィクションに持ちこんでしまっているということでしょうか?

保坂 オカルトを信じない人の観点で創作をしてしまっている。それは大きな間違いなんだよ。というか、あれ!? 川又くん(編集)、『ロスト・ハイウェイ』のTシャツ着てるじゃん! いま、ようやく気づいた(笑)。

——あ、そうなんですよ(笑)。たとえばデヴィッド・リンチの作品には、根底にオカルト的なものが潜んでいますよね。

保坂 それは大いにあると思う。『マルホランド・ドライブ』のカウボーイや『ツイン・ピークス』のボブとかさ、フィクションの外から来た人間として登場させているんだよ。つまり、カウボーイやボブはフィクション内の単なる登場人物ではない。リンチのフィクション観が通常のフィクションの受容のされ方とすごくズレていることを示している。そのあたりが、オカルトとしても、すごく自分の琴線にふれるものがある。なんか真理な感じがするんだよね。

■親の死、猫の死、自分の死

——保坂さんが普段から不思議に思っていることはありますか?

保坂 いままで誰からも相づちを打たれたことがないんだけれど、僕にとっていちばん不思議なのはパソコン。電源を入れるときは、手でスイッチ押すでしょ。ところが、オフにするときは画面のなかで操作して切るじゃん。これってすごく変じゃない? なんかオカルトっぽいんだよね。たとえるなら、人生に近くて、生まれるのは外の力なんだけど、死ぬのは自分の力。運動の結末だけがあるだけなんだよね。

——言われてみればそうですね。パソコンは外部から命を与えて、自分で死んでいく。死生観といえば、『<私>という演算』(新書館)で書かれていた、保坂さんの祖母の「不信心」の話がいまでも印象に残っています。

保坂 僕の祖母は「さわらぬ神に祟りなし」という信条で、神様に拝んだりしたらあとが恐いっていつも言っていたんだよ。恐いから、神様なんかにはふれてはいけないと。だから、旦那のお墓参りも一度もしなくてさ。家のなかの仏壇だって拝まなかった。ただ、信仰以前の、もっと原初的な信仰になる前の恐れは確実に持っていた。

——死ってどんな生物とっても同一ですよね。猫も犬も人間も。たとえば、3.11が起こったあと、人間は自然には太刀打ちできないって盛んに言われましたけど、結局、人間も自然の一部だと考えるとするならば、死ってそこまで恐がるものなのかな? という疑問があるんです。

保坂 そこはすごく重要! ただ、それはね、僕ではなくて小説家の山下澄人に聞いてよ。そういったことを常に考えながら生きているのが山下という男なんだよ。山下の両親は早死にしている。一般に言われてることなんだけど、親の死んだ年を越えるということは、子どもにとってすごく大きい一線らしいんだよね。僕の父親は84歳まで生きたし、母親もまだ生きているから、僕にはいまいちピンとこない。人が生きたり死んだりする小説を山下が書いているのは、山下のなかでは死というものがすごく大きいからだと思うよ。

——山下さんの小説には、よく「親はガンで死んだ」というフレーズが出てきますよね。少し失礼な言い方になるかもしれませんが、絶対、保坂さんも死ぬじゃないですか? 保坂さんにとって死とはなんでしょうか? もちろん、そう言っている僕も絶対に死ぬわけですが……。

保坂 僕もぼちぼち50歳後半だから、脳出血とか心臓発作関係で死ぬ可能性はずっと高まっているわけ。でもまあ、いまのところ変なものを残したらやばいな、くらいしか思っていない。やばいっていうのはエロサイトの履歴とか(笑)。

——死ぬ間際、ハードディスクの中身を全部消さなきゃって(笑)。

保坂 いや全部消したらまずい。猫の写真は残しておかなきゃいけないんだよ。03年には家猫と外猫、合わせて10匹にエサをやってた。でもいまは2匹しかいない。10年間に8匹も死んでしまった。マーちゃんが死んだ14日、ピースの死んだ3日、コンちゃんの死んだ24日、チャーちゃんの死んだ19日、ジジの死んだ17日。つい先日、マミーが死んで、その前に死んだ猫の戒名とかつけていないし、ちゃんと弔ってあげられていないことに気づいてさ。それで、動物の霊園に「これまで死んだ猫の戒名みたいなお札を書いてほしい」とお願いしたの。命日と一緒に戒名も入れたお札。僕の行動記録として、どの猫がいつ死んだとか、ぜんぶ残してあるから、それをこのあいだひっくり返して、記録が3カ月ぐらいずれていたりするんだけど、でも行方不明になった猫もいて……で、なんの話だっけ?(笑)

——(笑)。保坂さんにとっての死はなにか? という話です。

保坂 僕にとっての死は猫なんだよ。猫のことを知っているのは僕と何人かしかいないわけだし。でさ、猫は僕と何人かしか知らないし、その一方でまったく誰からも知られないまま死んでいく猫もいる。みんなそうやって消えていくわけだよ。でもさ、体臭やわきがの強い人とかさ、その人がその場からいなくなっても匂いが残っているときあるでしょ。死ってそんな感じもするんだよね(笑)。

■オカルトを信じない人は成功しない

——最後になりましたが、保坂さんにとってオカルトの定義ってありますか?

保坂 オカルトとは生命という活動だよ。どうやっても十全に説明がつかない。だから生命としか言いようがない。この前、ネットを見ていたら、矢追純一がなんでUFOを追いかけはじめたかっていうインタビュー記事があったんだよ。それがすごくいい話で、矢追純一はこう言っているわけ。「ある日気づいたんだけど、東京でサラリーマンがみんなうつむいて歩いている。だからみんなに『空』を見せたかったんですよ」って。でも、それはUFOのお告げだったかもしれないと僕は思った。矢追さんは自分の意志で言っているようだけど、ほんとはUFOに言わされていたんじゃないのかって。コックリさんの話もそうだけれども、そもそも自分の意志を信じるってことがすでに貧困なんだよ。

 そして最後にひとつだけ言えることがある。あのね、オカルトを信じない人は、成功しないんだよ。科学や理屈ですべてを説明しようとする人は絶対に成功していないんだよね。あ、新興宗教を信じろということじゃないよ。ああいうのは信じるんじゃなくて、頼っているだけだから。
(インタビュー・構成/川又宇弘)

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『考える練習』(大和書房)

■保坂和志(ほさか・かずし)
1956年、山梨県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。93年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、95年『この人の閾(いき)』で芥川賞、97年『季節の記憶』で谷崎潤一郎賞、平林たい子文学賞を受賞。そのほか、『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』『カフカ式練習帳』など著書多数。9月に「群像」(講談社)での連載をまとめた長篇『未明の闘争』が刊行予定。



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