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画像は、Wikipediaより

 京都の観光地といえば、神社仏閣に京都御所、そして近代的な京都タワーなどもあるが、今回はその中のひとつ、「嵐山」にまつわる歴史について考察していこうと思う。

 今でこそ観光地として有名な嵐山だが、京都に古くから住んでいる住民には、「嵐山に近づきたがらない人々が多い」という謎がある。それは一体なぜなのか?

■奈良「平城京」から、京都「平安京」へ遷都に至るまでの呪われた歴史とは?

もともと、京都という土地は、奈良の都・平城京からすぐに移転した都ではなく、間に10年間「長岡京」という都に遷都していた時期があるということをご存じだろうか。

 しかし、長岡京では、その造営を命じられた藤原種継が、反目勢力の大伴継人(おおともの つぐひと)の仕業によって、造営開始の翌年の785年に暗殺されてしまうのである。

 そして、桓武天皇はこれらの事件に関与したとして、大伴継人や、そのほか暗殺に加担した数十名を処刑しただけでなく、早良親王も捕らえた。

 捕らえられた早良親王は、ひとことの弁明もできないまま、乙訓寺に幽閉された。乙訓寺に幽閉された早良親王は、一切の飲食を拒み、無実を訴え、淡路島へ配流される途中に餓死したという。親王の屍は、そのまま淡路に送られ、葬られている。

この事件以降、この処分を命じた桓武天皇の周辺では“早良親王の怨念”といわれる事件が相次ぐのである。

■次々に人が死に、長岡京が壊滅状態に追い込んだ“早良親王の怨念”とは?

 怨念のはじまりは、この事件の翌年、桓武天皇の妻の母が亡くなったことに始まる。そして、その翌年には、妻本人が亡くなってしまう。また、天皇の母も病死、皇后も原因不明の突然死をしてしまうのだ。さらに、藤原種継の後を受けて都の造営を行っていた者たちが雷に打たれて死んでしまうという事件が発生し、最後には伊勢神宮が何者かに放火されてしまうのである。そして、最後には、長岡京に大洪水が押し寄せ、その後の衛生面の悪化ではあるが、当時は怨霊ということで疫病が流行したのである。

これらの事件を陰陽師は「親王の怨霊」とし、桓武天皇は暗殺の罪を許して墓守を置くなどの処置をした。しかし、それでも怨霊をおさまらず、桓武天皇は現在の京都である平安京に改めて遷都することになったのである。



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