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『白蛇』(BounDEE)

「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。弾丸が飛び交う中で命をかけて走っているとき、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのはこれは誰だってわかる……」

 橋下大阪市長の「従軍慰安婦」に関する発言が、世界に大きな波紋を投げかけている。

 戦時下においては必要だったとされる「慰安婦制度」。そもそも「従軍慰安婦」とは、1932年の満州事変から1945年の敗戦までの期間に、戦地・占領地で日本軍の監督下の置かれた「慰安所」に集められ、軍人軍属の性交の相手をさせられた未成年も含む女性たちのことである。

 実は、国民的歌手であり、俳優・アーティストとしても名高い美輪明宏が、『祖国と女達(従軍慰安婦の唄)』を作っていたことはご存じだろうか?

■美輪明宏の反戦の元となった原爆体験
 
 昭和20年8月9日。当時10歳の美輪明宏は長崎の自宅で原爆にあった。その当時の思い出を、You Tubeであげられた「美輪明宏が語る原爆体験」で、こう語っている。

「……家の前に立っていたら、ボロボロの矢絣の着物を来た女の人が来るんです。火傷で腫れがあった唇で『水をください……』と言っているのがわかった。お水を入れたお椀をその方に渡そうしたら、持てないっていうんです。そしたら、手がないんです。ぐじゃぐじゃになっていて。そうか……と思って、その方の口に水を注いであげました。……私はまだ子どもなのに(涙)手を合わせて拝むんですその方が『ありがとうございます……』って。そして、しばらくして眠ったと思ったら、その方は死んでいるんです。水をあげたら死んじゃうんです。そしたら、次から次へと来るんです。男の人やおじいさんやらいろんな人が。私1人ではさばき切れないんで、お手伝いさんと一緒に、一生懸命に水を飲ませてあげました。末期の水ですよね。本当に悲惨というかね……」

 美輪自身も被爆し、髪の毛が抜けたり悪性の貧血で悩まされたりする後遺症があった。当時の強烈な原爆体験が、戦争反対を訴えるきっかけになったのではなかろうか。

■弱者のために闘う歌手になるきっかけとなった、労働者のための曲『ヨイトマケの唄』

 昨年末の紅白で美輪明宏が熱唱し、日本中を感動の渦に巻き込んだ『ヨイトマケの唄』。

 貧しく苦しい生活のなかでも、お互いを思いやる母と子の絆を描いた戦後の名曲である。

 日雇い労働者である母の職業差別を受け、いじめにあう主人公が、戦後の復興期の貧しい少年時代を経て高度成長期に立派なエンジニアへと成長。「苦労、苦労」で死んでいった母への思いを唄ったものだ。 
 この唄の背景には、美輪自身の体験がある。

 美輪明宏は、17歳の時シャンソン歌手デビューし、『メケメケ』などのヒット曲を飛ばした。「神武以来の美少年」「シスターボーイ」などと絶賛され、中性的な魅力ときらびやかな衣装で一斉を風靡し、国民的歌手となる。

 しかしある時、美輪の運命を変える出来ごとが。

 地方巡業で、炭鉱の町でコンサートを開いた美輪。

 当時、炭鉱不況が始まったころで、お客は来ないだろうと思っていたが会場は満員。炭じんが染みこんで、手や顔が真っ黒けの炭鉱労働者の人たちばかりだった。安い賃金をつぎ込んで歌を聞きに来てくれた人々。美輪は衝撃を受け、この人たちのための歌を作ろうと決意した。当時の日本は流行歌ばかり。アメリカにあるようなワークソング(労働者のための歌)はなかった。だから、自分がその先駆者になろうと思ったのだった。

 そして、美輪明宏の代表作ともいうべき『ヨイトマケの唄』が誕生。当時は、原爆の後遺症の吐血や貧血に悩まされながら、必死に作詞作曲を行っていたという。『ヨイトマケの唄』の趣旨に合うように、美輪は派手な衣装を脱ぎ捨て、素顔にワイシャツ一枚で歌った。

 1965年にリリースされた『ヨイトマケの唄』は大反響を受けて40万枚の大ヒット。
だが、「差別用語が入っている」という理由で放送禁止曲に指定される。

「歌詞を変えろ」と言われても、「歌詞を変えれば、親子の絆を表現することができない」と美輪は主張。その後、仕事を干されることになったという。どんなに批判を浴びても美輪は決して信念を曲げなかったのである。

そう、弱者のために権力と闘う歌手なのである。



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