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聖徳太子秘文『未来記』
開封(徳間書店)

 今から約1300年前、日本にも偉大な予言者が存在した。

「冠位十二階」、「十七条憲法」で知られる飛鳥時代の偉人、聖徳太子。歴史の教科書でもおなじみで、日本の紙幣は一時、千円札、五千円札、1万円札の肖像画は全て聖徳太子だった時があったほどだ。その名を知らない者はいないだろう。

 だが最近では、お札に使用された誰もが知っている聖徳太子の肖像画が実は、本人の顔ではないという説がでている。そして、今では聖徳太子の存在すらも疑われだしているのだ。このように、何かと謎の多い聖徳太子、一体どのような人物だったのだろうか?

聖徳太子の超人伝説

 聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)は、用明天皇の第二皇子として生を受ける。生まれた場所は宮中の馬小屋の前だったため厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。

 馬小屋といえば、イエス・キリストも馬小屋で生まれている。そのため、聖徳太子はキリストの生まれ変わりだという説や、キリストの話が日本に伝来して聖徳太子の話になったという説もある。キリスト教が日本に入ってきたのは戦国時代と言われているが、それよりもずっと前の時代に、シルクロードを通って日本に伝来してきた可能性もある。聖徳太子のブレーンとして活躍した渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)は景教(キリスト教)徒のユダヤ人であるという説もある。このことから、仏教を日本に本格的に広めた聖徳太子だが、キリスト教とも何らかの関わりがあっただろう。

 さて、聖徳太子には不思議な力があったとされている。生まれてすぐに言葉を発し、幼少の頃にすでに国内外の学問を修め高僧の域に達した天才児だった。1度に10人の人の話を聞くことができ、馬に乗って空を飛び富士山の頂上に登ったという。14歳の時、物部氏との戦いにおいて仏教を奉ずる立場で蘇我氏の軍に加わっていた聖徳太子。木の枝を4本削って髪に差し「これは四天王である!」と叫んだ途端、矢が敵の総大将である物部守屋に当たって死んだ。これにより崇仏派の蘇我氏が勝利。そして聖徳太子の手によって仏教が日本へと徐々にと広められていくことになった。

 さらに、聖徳太子には未来を予言する能力まであったのだ。

『日本書紀』の巻の二十二には、太子が「兼知未然」と記されてある。未然は未来と同義語。つまり、聖徳太子には未来を示す予知能力があったことを日本の正式な歴史書が証明しているのだ。

 では……聖徳太子が残した予言とは、いったいどのようなものであったのだろうか?

幻の聖徳太子の予言

『日本書紀』では、太子が予言者であったこと以外に、具体的な予言の内容までは書かれていない。これは、太子の死後、時の権力者によって自分に都合の悪い部分やあまりにも怖ろしい記述に関しては、バッサリ削ったためだといわれている。

 ただ、日本仏法では、伏伝(最高の秘密の言い伝え)として、古い寺などで聖徳太子の予言がこっそりと伝えられているそうで、太子が、「聖書のハルマゲドン以上の怖ろしいことが起こる」という予言をしたといわれている。

 そして、太子が残した幻の予言書に『未来記』というものがあるのだが、文書としてはっきりと形が残っていない。『未来記』を元本とし、大きく影響されて書かれたと思われるものに『未然本記』というものは存在する。しかし、聖徳太子の『未来記』『太子の予言』と呼ばれてきたものは、歴史上の人物の伝承や古文書のなかにポツリポツリと現れる程度である。

『太平記』によると、鎌倉時代から南北朝時代まで活躍した武将、楠木正成は、四天王寺で『未来記』を見たと記されてある。そこには、楠正成率いる軍勢が勝利し、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が復帰する旨が書かれてあった。それを見て楠正成は己の天命を悟ったという。その後、実際に後醍醐天皇、足利尊氏や新田義貞らとともに鎌倉幕府を倒したのだった……。

「私はまもなく死ぬし、子孫は一人も残らない」聖徳太子は自らの悲劇的な運命も予言していた。太子は病死とされているが、蘇我入鹿に暗殺されたともいわれている。太子の死後、一族は入鹿軍に囲まれた。太子の「争ってはならぬ」という遺言を守り、集団自決をしたのである。その悲劇のあった場所は、五重の塔の近く。一説によると法隆寺は、一族もろとも残虐に滅ぼされた聖徳太子の怨霊を封じ込める場所だともいわれている。



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