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<今回のオカルト事件簿>
ヤハウェ・ベン・ヤハウェ事件

 1986年4月から10月までの6カ月間、マイアミで白人ホームレスたちが次々と殺害されるという事件が発生した。遺体は、指や耳、鼻などが切り取られているという奇怪なものだったのだが、警察は、長年トラウマを抱えてきたベトナム帰還兵が犯した事件だろうと推測。あまり積極的に捜査を行わなかった。

 しかし、その後、アパート立ち退きを拒否した住民が次々と射殺されるという事件が起き、この犯人がホームレスたちを殺害したことを告白。この男は、「ヤハウェ万歳!」と繰り返し叫びながら「白人は悪魔だから殺した」と供述した。

 この犯人が信仰する宗教は、「ヤハウェ・ベン・ヤハウェ」という新興宗教。神は黒人、黒人こそが選ばれし者だという黒人優越主義教団で、教祖のヒューロン・ミッチェル・Jr.は自ら救世主だと名乗り、何百人もの信者から崇められていた。教団が製造するビールやワインの売れ行きは上々で、地域に貢献したとマイアミ市長から表彰されるほどだった。しかし、教祖はマインドコントロールに長けた人物であり、白人や脱退者を殺すよう強制的に命令。信者たちは何十人もの殺人を犯したのである。

 この教祖は一体どんな人生を歩んできたのか、そして、どのようにして、ヤハウェ・ベン・ヤハウェは誕生したのだろうか。

 ヒューロン・ミッチェル・Jr.は1935年、オクラホマ州キングフィッシャーに、15人兄弟の長男として誕生。学校、店、映画館、すべてが白人と黒人(有色人種)に区別されていた社会に育った。敬虔なクリスチャンだった父親は、「この世の苦しい人種差別に耐えれば、必ず天国へ行ける」と子どもたちに言い聞かせていたという。ミッチェルは聖書を熟読する聡明な子どもで、旧約聖書の中の、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する「出エジプト記」を特に気に入っていたそうだ。

 18歳で空軍に入隊したミッチェルは、学生時代から交際していた彼女と結婚し、4年間で4人の子どもをもうけた。公私ともに順調だったが、「神、家族、そして自分自身よりも、何よりもお国を優先しろ」という軍の教えに疑問を持つようになる。黒人であることで散々差別を受けてきた自分が、そこまでして国に尽くすべきなのかと嫌気がさすようになり、父の「耐えれば天国へ行ける」という言葉も疑うようになったという。そして、彼は軍を去り、活発化してきた公民権運動に参加するようになった。
 
 公民権運動のリーダーとしてがむしゃらに活動したミッチェルは、その後、イーニッド・フィリップス大に入学し、心理学を専攻。大学でバラ十字などのスピリチュアルムーブメントに染まるようになり、敬虔なクリスチャンで保守的だった妻は、彼の元を去ってしまった。

 「公民権運動は、さらに白人を優先させる社会を作り上げる罠だった」「白人経営者の店に、黒人の金が流れるシステムを作ってしまった」のだと思い込むようになった彼は、ネーション・オブ・イスラムの会合に顔を出し始めるようになった。そして、その教えに心酔し、「頬を叩かれたら、もう片方の頬を出せ」と教える忍耐ばかりのキリスト教と決別。移住したアトランタで、「目には目を」をモットーに、牧師として説教をするようになった。アトランタでは大学にも通い、経済を専攻。ストリートからインテリまで、幅広い黒人層から支持されるようになった。しかし、お布施の金を盗んだ、子どもたちにいたずらをしたとうわさされるようになり、身の危険を感じて逃走。宗教は金になると味をしめた彼は、逃走先で「モダン・クリスチャン教会」を設立して、宗教家として生計を立てるようになった。

 だが、ここでも教会の金を盗んだと疑われたため、また逃亡。今度は、遠くのフロリダに逃げ、「ブラザー・ラブ」と名乗りストリートで説教を開始。アトランタで経験を積んだ彼の、この上なく説得ある語りはたちまち評判となった。「神は黒人、黒人こそが選ばれた人種、ユダなのだ」「白人はこの事実を必死に隠そうとしている」という彼の言葉に、黒人たちは優越感を得て心の安らぎを感じた。これが、カルト「Temple of Love」の始まりである。






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