WhitneyHouston.jpg
ご冥福をお祈りします

 11日、滞在していたビバリーヒルトン・ホテルで遺体となって発見されたホイットニー・ヒューストン。パワフルで深みがあり、聴く者の魂を揺さぶるような歌声で世界中の人々を魅了した歌姫の死は、あまりにも突然すぎるものだった。グラミー賞を6回も受賞し、主演映画『ボディガード』も大ヒット。華やかな世界のトップに君臨していたホイットニーだったが、コカイン依存、DV共依存で心身共にボロボロになった暗黒の時期が長くあった。そんな彼女の心を支えていたのは、スピリチュアルへの想いだったと伝えられている。

 1963年8月9日、ニュージャージー州ニューアークで生まれたホイットニーは、地元のニューホープ・バプテスト教会のゴスペル隊の指導・監修をしていた、プロのゴスペル歌手だった母、シシー・ヒューストンの影響を受け、幼い頃から同教会で聖歌を歌うようになった。11歳という若さでゴスペル隊のソリストを務めるようになった彼女だが、最初は聴衆の反応が怖く目をつぶって歌っていたとのこと。「歌っている途中で目を開けたら、私の声がみんなの心に入り込み、魂を揺さぶっているのが見えたの。あぁ、神さまは、歌を通して人々を感動させる才能を私に与えてくださったんだって、その時感じたの」と後にインタビューで語っているが、このことがきっかけで彼女はプロの歌手を目指すようになった。
 
 17歳になるとホイットニーは母とともに、ニューヨークのナイトクラブのステージに立つように。そのステージを見たアリスタ・レコードのスカウトマンが、プロデューサーのクライヴ・デイヴィスに彼女を紹介し、とんとん拍子でデビューが決定。22歳で、史上最高のデビューアルバムの売り上げを記録した女性歌手になり、その後リリースした8枚のアルバムも立て続けに大ヒットした。

 美しいのに浮いた話のないホイットニーに、レズビアンなのではないかというゴシップが流れたこともあったが、彼女は「私は簡単に男性と付き合う女性じゃないの。心から愛せる男性が現れるまで待つの。そういう風に育てられたし、そういう家庭で育ってきたから」と否定。キリスト教の信者であることを誇りに思い、神への信仰心を持ちながら、スターになっても奢ることなくクリーンなイメージを守っていた。
 
 しかし、スターダムを一気に駆け上がっていった彼女は、ハードスケジュールを強いられるようになり、周囲から見ると「まるでクルクルとスピンしているようで、危なげに見えた」とのこと。彼女も精神的にギリギリなのはわかっており、何か心の支えになるものをつかもうと手を伸ばした先にいたのが、ボビー・ブラウンだったのだ。

 ボビーも10代の頃から歌手として活動しており、当時は出す曲すべてが大ヒットするという人気R&Bスターだった。一見して共通点があるように見える2人だが、ホイットニーは白いガウンを着て教会で歌っていたグッドガール、ボビーはボストンの荒れた地区で育ちステージでは服を脱ぐようなバッドボーイ。1992年に2人が800人の招待客の前で永遠の愛を誓った時、誰もが長続きはしないだろうと思っていた。

 信仰心が深いホイットニーは、神さまに対して「ボビーと添遂げる」と誓ったことを真剣に捉えていた。「私は彼の妻。神に誓ったのだから、絶対に幸せにならないといけない」と強く思っていたそう。1993年には一人娘のボビー・クリスティーナが誕生し、幸せな家庭を築こうと強く思ったに違いない。

 しかし、ボビーは暴行罪、スピード違反、飲酒運転、薬物所持など次々とトラブルを起こし逮捕騒動にまで発展。家庭的な夫とは程遠い男だった。それでもホイットニーは、彼をサポートし続けたが、この頃から、気晴らしにマリファナにコカインを混ぜて吸うようになったとのこと。ボビーと2人、1週間ずっとソファーに座りながら吸い続けていたこともあったと、後にオプラ・ウィンフリーのインタビューで告白している。

 90年代後半になるとコンサートのドタキャンが急増。ラジオ番組で支離滅裂な暴言を吐いたりと奇行が目立つようになった。そして、2000年3月。アカデミー賞授賞式でパフォーマンスするためのリハーサルで、ホイットニーは何を歌うのか忘れ、歌詞も忘れ、ヘラヘラしまくり周囲を驚かせた。プロデューサーはすぐに彼女をクビにし代役を立てたのだが、このことはあっという間に世間に知られるようになってしまった。

 そして、2001年8月。マイケル・ジャクソンの30周年記念トリビューコンサートのステージに立った彼女を見て、世間は激しく動揺することになる。骨と皮だけの悲惨な姿だったからだ。マイケルも当時、かなりガリガリに痩せていたが、そんな彼でさえホイットニーの激痩せを心配したと伝えられている。

 2001年の夏の終わりには死亡説が流れるほど気味悪がられるようになり、2002年11月に再起をかけてリリースしたアルバム『ジャスト・ホイットニー』は「ジャスト・オーフル(最低)」と叩かれ、2002年9月にアドバイスを受けていた父親の会社から突然「アドバイス費用を払っていない」と1億万ドル(約78億円)の裁判を起こされ、2003年2月にはその父親が他界。彼女の身に、何もかもが一気に押しかかり、押しつぶされそうになってしまう。きっとコカインの量も増えていったのだろう。

 最愛の父親が他界した年の6月。赤いアフリカの民族衣装を着たホイットニーが、ボビーと共にイスラエルに到着し世間を驚かせた。奈落の底に落ちていったホイットニーが助けを求めたのはキリスト教ではなくブラック・ジュー(ユダヤ教)だったからだ。彼女は「スピリチュアリティーを取り戻しにここにきた」「心の平穏を求めてきた」と発表。その頃受けたインタビューで「私は教会に属する女の子だったけれど、いつの間にか変わってしまった」と語っており、キリスト教に助けを求める資格はないと思ったのかもしれない。

 イスラエルに到着したホイットニーは、ネゲヴ砂漠のディモナで洗礼のような儀式を受け歌い踊った。「ここは私の家」とコメントしていたが、その表情は虚ろでマスコミは「これは贖罪なのか、それとも奇行なのか」と報じた。

 2005年、オプラのインタビューでホイットニーは、「ボビーは私にとってドラッグだった。彼の前だと私はどうしようもないほど弱くなってしまう」「彼は家中の物を壊し、私の肖像画の首をナイフで切り裂いたこともあり、精神的なDVを受け続けていた。何度も何度も"神さま、どうか私に強さをください。彼の元を離れる強さをください"って祈った」と告白。部屋に一人で閉じこもり、聖書を読みふけるようになったのもこの頃だと明かした。ブラック・ジューの洗礼を受けたホイットニーだが、聖書は常に手の届くところに置いていたとのこと。「自分の本当のスピリチュアリティーを失いたくなかったから」と彼女は語っている。

 彼女を動かす強さを与えたのは母親と娘の愛だった。警察を引き連れてやってきた母親に「娘を取り戻しにきた。リハビリに行きなさい」といわれ、本格的なリハビリを受けたホイットニーは、きちんと物事を考えられるようになり、2006年に娘を連れてボビーの元を去った。ロサンゼルスに移り住んだ後、それでも「ボビーが心を入れ替えて迎えにきてくれますように」と毎晩、ひざまずいて神に祈ったそう。しかし彼がくることはなく、娘の「もう待たなくていいよ。私にあの人はいらない。お願い、離婚して」という言葉に押されるように離婚したのだった。

 晩年のホイットニーはキリスト教に支えられ、活力を取り戻した。ゴスペル界の重鎮マーヴィン・ワイナンズ牧師のいるデトロイトのパーフェクティング教会とも交流があったとも伝えられている。遺作となった映画『Sparkle』は、貧困から抜け出すため歌手グループを結成した3姉妹の栄光と挫折を描く作品で、キリスト教の要素があり、それが出演を決めた理由の一つだとも明かしている。公共の場で最後に彼女が歌った曲も「Jesus Loves Me」、"イエス・キリストは私を愛してくださる"という聖歌だった。

 ホイットニーの遺体は、13日、大勢のファンに囲まれニュージャージー州ウィガム葬儀場に到着。葬儀は、18日、彼女が子どもの頃にゴスペルを歌っていたニューアークのニューホープ・バプテスト教会で執り行う予定となっている。

 亡くなる少し前に受けた米Access Hollywoodのインタビューで、「強い母がいて、どんな時も愛してくれるといってくれる家族が側にいてくれる私は本当に恵まれていると思う。でも結局は、自分の信仰、信念、そして決断にかかっていると思う」と語っていたホイットニー。寄り道もしたけれど、最後はキリストの大きな愛に包まれ、クリスチャンとしてこの世を去っていった。48年に渡るスピリチュアル・ジャーニーは、決して幸せなことばかりではなかっただろう。しかし、彼女は常に神を感じながら生きていたのだった。

 亡くなる前夜「イエス・キリストに会いたい」といい、亡くなる数時間前にも友人と聖書のヨハネ伝、バプテスト派、イエスについて語り合い、「イエスはとってもクールよね。本当に心から会いたいわ」と死を予感させるような発言をしていたと伝えられているホイットニー。彼女の願いは果たして叶ったのだろうか。



【検索ワード】  ・ 



オフィシャルアカウント&モバイル
  • twitter
  • facebook
  • RSS
  • モバイル用
  

ハピズムをBookmarkする