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ジム・ジョーンズ(Wikipediaより)

 1978年11月18日。南米ガイアナのジャングル奥地に開拓された人民寺院の本拠地ジョーンズタウンで、900人余りの信者が一斉に集団自殺を遂げるという地獄絵のようなセンセーショナルな事件が起きた。自殺は、カリスマ性と狂気に満ちた教祖、ジム・ジョーンズが命じたものであり、生き残った元信者の証言により、少なくとも300人以上が他殺されていたことが判明。ジム・ジョーンズのエゴと性欲の渦に巻かれたカルト集団の実態と、辺り一面に老若男女のおびただしい数の死体が転がる報道映像は、アメリカのみならず世界中を戦慄させた。

 ジムは1931年5月13日、インディアナ州の貧しい家庭に生まれた。父親は無職のアル中で白人至上主義団体KKK信奉者、母は生活を支えるため複数の職を掛け持ちしていた。聖書を文字通り一字一句信じるキリスト教原理主義者が多い地区で育ったジムは、幼い頃からキリスト教と死に強い興味を示すようになった。子どもの頃は、猫をナイフで刺し殺し葬儀を執り行う遊びをよくしており、周囲を気味悪がらせたという。

 コミュニティーから浮いた存在だったジムは、ゴスペル教会に居場所を見出し、精神を高揚させる牧師の説教に心を震わせるようになる。そして16歳で「自分にはスピリチュアルな力がある」と目覚め、ミサの最中、道端に立ち上がり黒人差別をやめるよう説教を始めるようになった。一見して慈愛に満ちた青年へと成長したジムであったが、心の中では自分が人より超越した特別な人間であると信じ酔っていた。また、彼の言葉に反して教会のミサの途中で退席した友人に対して、激怒し銃で撃ったこともあったと伝えられている。

 ジムは優秀な成績で高校を卒業し、翌年バイト先の病院で出会った宣教師の娘で看護士のマルセリーヌと結婚。妻の勧めでマイノリティーを解放しようと教えるメソジスト教に感銘を受け、牧師になった。ゴスペル教会仕込みのローラーコースターのような説教スタイルで貧しい黒人たちから絶大なる支持を受けるようになったが、お布施は集まらず、ジムはサルを売り生計を立てていたという。ペンテコステ派の教会にも赴き、自分の信念を熱く説いたジムに共感する者は次第に増え、1956年、ジムは自分の教会「人民寺院」を立ち上げた。

 ジムは人民寺院で説教するだけでなく、貧しい者に食事やシェルターを提供するなど福祉活動に精を出した。自身も貧しい生活であったが、黒人の男の子、韓国孤児の男の子と女の子を養子に迎え、実子である息子と分け隔てなく育てた。「我が家はレインボー・ファミリーだ」と笑うジムは救世主と崇められるようになった。

 人民寺院が急成長を遂げた60年代は、米ソの冷戦やキューバ危機など、社会が不安定な状態にあった。核戦争を異様なまでに恐れていたジムは、雑誌「Esquire」の「核戦争が勃発しても生き残れる9つの場所」特集を読み、カリフォルニア州ユカイアに信者共々移り住む決心を固める。

 141人の信者と共にユカイアのレッドウッド・バレーに移住し、自給自足の生活を始めたジムは、年に数回、バスをチャーターして信者と共にクロスカントリーツアーを行った。この頃、ヒッピー上がりの弁護士ティム・ストーンがジムに近付き、人民寺院の上層部は白人で固められるようになった。「資産を寄付すればユートピアが実現する」という理屈に誰もが従うようになり、信者は安定した生活を与えられた。しかし、働き詰めの生活を強いられるようになると、睡眠時間もろくに取れぬ信者たちは自ら考えることをやめ、全てをジムにゆだねるようになってしまった。そんなある日、ジムは説教の最中に聖書を突然床に叩き落し、息をのむ信者を見回し、こう言った。

「聖書を侮辱した私に、天から雷が落ちてきたか? 天からは誰も降りてきやしない。空の上に天国などありはしないのだ! そんなのは偽りなのだ! 我々が、この地上に天国を作るのだ!」

 そして、続けてこう言い放った。

「私に友になって欲しい人には友になろう。私に父になって欲しい人には父になろう。
私に救世主になって欲しい人には救世主になろう。私に神になって欲しい人には神になろう」 

 これを機に、ジムは大勢の信者の前で車椅子の老女を歩かせたり、目の見えない信者の視力を取り戻すなど、さまざまな奇跡を起こすミラクル・パフォーマンスを行うようになった。もちろんすべてヤラセなのだが、何も知らぬ信者は目の前で起こった奇跡に興奮し、泣き叫び、トランス状態に陥った。そして、ジムを唯一の神と崇めるようになり、絶対服従するようになっていったのだ。 
 絶頂に立ったジムは、性的な面でも信者たちをコントロールした。説教では、「この世の人間は、私以外、皆ゲイだ」「信者同士が性的な関係を持つのは身勝手なことだ。人民寺院の助け合いの精神を欠く行為だ」と言い、夫婦であっても性行為を禁じた。そして、気に入った信者には男女を問わず「ファックしてやってもいいぞ」と声をかけるようになった。異常なまでに性欲が強かったジムは、何人もの女性とセックスした後もオナニーできると豪語したり、ゲイとセックスするために町をぶらつきセックスを強要しようとしたとして逮捕までされている。ユートピアでは差別者ではないという証に、白人信者は黒人信者の性器を舐めるよう指示されていた。

 このことが原因で脱会する信者が増えるようになると、告発しないようストーカーのように嫌がらせをした。1972年には、ジムの子どもを出産したティムの妻も脱会。妻は、人民寺院に残した子どもを取り戻そうと裁判の準備を始めた。ジムの力添えでサンフランシスコ地方検事補になっていたティムは、このことが世間に公になると失脚してしまうと焦り、妻を説得しようと必死になる。

 信者たちに裏切られたと歯軋りしていたジムは、次第に脅迫観念に支配されるようになり、1974年、1,000人近くの信者を連れて南米ガイアナのジャングルに移住した。ジョーンズタウンと命名したこの土地で、相変わらず自給自足の生活を送ったのだが、精神を病んでいたジムは繰り返し革命的自殺をしようと説くようになった。脱会しようとする者はリンチされ、皆の前で自慰行為をするよう強制させられた。ジムの完全なる支配下に置かれた人民寺院は破滅へと突き進んでいったのだ。

 人民寺院の実態がすぐさまマスコミに取り上げられることはなく、マスコミに取り上げられるまでには数年の年月がかかった。なぜなら、ジムは、ティムを通して政治家とのコネをつくり、新聞社にも信者を送るなど、徹底してガードしていたからである。CIAがジムと手を組んで、マインドコントロールの実験をしていたという、ビックリ説まで流れるほど、外部に情報が漏れることはなかったのだ。

 しかし、1978年11月14日、マスコミや被害者家族の会からの要望に応え、アメリカ下院議員レオ・ライアンや報道記者ら5人がジョーンズタウンを視察に訪れた。最初は和やかに談話をしていたが、切羽詰った脱会希望者が夜中に記者に人民寺院の実態を暴露し、ジムはピンチに陥る。 

 調査を終えた議員たちが帰国の途につこうと小型機に乗り込もうとした瞬間、ジムの指示を受けていた信者たちが襲撃した。そして、直後、ジムは信者たちに「革命的自殺」をするようスピーカーで呼びかけた。

 信者たちは猛毒シアン化合物を混ぜた飲み物を飲むよう命じられた。子どもたちはシアンを注射器で打たれ、拒否する大人も注射を打たれたり銃殺された。全員死んだのを確認した後、ジムもこめかみに銃をあて、自ら47年の生涯を閉じた。

 牧師になった当初、ジムは心の底から人種差別を無くし、貧しい者を救おうと願っていたはずである。しかし、神と崇められるようになり頂点に立ったとき、彼は脅迫観念に支配されてしまい、全てが音をたてて崩れ落ちてしまった。

 楽園といいながらも実態は地獄だったジョーンズタウン。長年に渡り信者たちをマインドコントロールし続け、センセーショナルな最期を迎えたジムを崇めるカルトフリークは、今も多く存在するという。



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