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『Lie: The Love And Terror Cult 』(Aware 
One Records)

 1969年8月9日、ロサンゼルスで、映画監督ロマン・ポランスキーの妻で臨月を迎えていた女優のシャロン・テート(当時26歳)が、4人の来客と共に自宅で何者かにより殺害された。翌朝、同じくロサンゼルス市内で、スーパーマーケットのオーナー、ラビアンカ夫妻が、自宅で変わり果てた姿で発見。2つの事件の被害者は裕福であるという以外に共通点はなかったが、犯行現場の壁には被害者の血で意味不明なメッセージが書きなぐられていたこと、異常に刺し傷が多かったことから、犯人は同一人物だと見られた。しかし、警察は犯行動機も犯人像も全く掴めず、捜査はすぐに行き詰まってしまった。

 全米を震撼させたこの「テート=ラビアンカ事件」は、裕福なセレブをターゲットにした事件だとささやかれるようになり、ロサンゼルス住民は恐怖に陥った。フランク・シナトラら多くのスターが町を離れ、麻薬絡みの事件かもしれないと薬物をトイレに流す者が増え、下水が詰まるハプニングも起こったとも伝えられている。また、2つの事件の被害者が負った刺し傷は合計して169カ所もあり、銃創もあったため、人々は銃販売店に殺到。とある銃販売店では、ピストル200丁がたった2日で売れたそうだ。

 事件から3カ月後、ロサンゼルス市警察にとある売春婦から密告電話が入った。
「車両盗難で、私と一緒の拘置所に入っていたスーザン・アトキンズってクレイジーな女がいる。彼女は選ばれし者だけが入れるカルト集団の一員で、テート=ラビアンカ事件は自分たちがやったと言っている」
「『殺せば殺すほど、殺人するのが好きになれるわ』と言っている」

 当時、まだ拘束されていたスーザンを訊問したところ、彼女はあっさりと犯行を認め、「世界的な終末戦争、ヘルター・スケーターへの第一歩なの」とキラキラした目で説明。たくさんの共犯者がいること、みな素晴らしい指導者を持つマンソン・ファミリーの信者で中流階級出身の白人ヒッピーだということを明かした。

 警察も世間も、この上なく残虐な連続殺人事件の犯人が、ごく普通の中流家庭に生まれ育った、虫も殺さぬような若く純粋な白人ヒッピーたちだったという事実に驚愕した。そして、彼らの心と体を完全にコントロールし、史上まれに見る猟奇的殺人事件に走らせたマンソン・ファミリーの指導者、チャールズ・マンソンという男に激しい恐怖心を抱いた。

 マンソンは、なぜカルトを作り、どのようにして絶対的な支配力を持つようになったのか。そして、なぜ信者たちに殺人を犯させたのか。その疑問を解くカギは、彼の悲惨な生い立ちにある。

 1934年11月12日、オハイオ州シンシナティでマンソンは生まれた。母親は16歳の家出少女で売春をしていたため父親は誰なのか定かではない。望まぬ妊娠により生まれたマンソンは育児放棄され、5歳のとき、母親が強盗罪で投獄されたのをきっかけに、ウェスト・バージニアに住む伯父・伯母・祖母に引き取られ育てられた。しかし、マンソンに強い影響を与えたのは、世話をしてくれた彼らではなく、ケンタッキーの山に住む世捨て人のような伯父だったという。

 「伯父は、『降参したわけじゃねぇ。今も紛糾は続いている。この世の終わりまで戦いは続くんだ』『ヤンキーの学校なんて信じるんじゃねぇ。少年よ、学校なんて行っちゃだめだぜ』って言ったんだ。だから、オレは9歳のときに学校に放火した。で、少年院にぶちこまれたのさ」(マンソン)

 1942年に仮釈放された母親はマンソンを引き取り、とっかえひっかえ交際する男らとともに安宿を転々と暮らす生活を送った。マンソンが13歳になったとき、母親は彼を里子に出そうとしたが、里親が見つからず、裁判所は孤児院学校へマンソンを送り込んだ。マンソンは10カ月後、脱走し母親のもとへと戻ったが、母はマンソンを拒絶。学校に戻されたマンソンは、再び脱走し、ストリート・キッズとなり軽犯罪を繰り返すように。強盗を行い逮捕された後は、7つの少年院を転々とした。インディアナ州の少年院では性的虐待を受けたと明かしている。

 1954年、19歳のときにウェスト・バージニアに住む伯父と一緒に暮らすことを条件に仮釈放されたマンソンは、その翌年、病院でウェイトレスをしていた女性と結婚。しかし生活のため車泥棒を繰り返し再び塀の中に戻るはめになる。妻は母親と同居し、息子を出産。しかし他の男とねんごろになり、結婚して3年目に離婚されてしまった。

 24歳のときに仮釈放された後、マンソンは16歳の少女などのポン引きをし生計を立てるようになるが、1年後に小切手の偽造をして逮捕される。禁錮10年を命じられたマンソンだが、交際相手の売春婦が減刑を訴え、2人は結婚。彼女との間にも息子をもうけるが、4年後に離婚している。

 マンソンはこのときに服役したロサンゼルス市刑務所で、看守に取り入り良い待遇を受けたり、誰もが恐れるギャング囚人に気に入られギターの手ほどきを受けたりしている。相手が何を欲し、何を必要とし、そして弱点は何なのか。すばやく見抜き、それを上手く利用する能力に磨きがかかったのも、この頃だと伝えられている。

 1967年、32歳で出所したマンソンは、彼を拒絶し捨てた社会に対して復讐を誓う。その復讐を実現するため、彼を中心とした社会を築き、人々を完全なる支配下に置こうと計画した。

 人生の半分以上を少年院や刑務所で過ごしていたマンソンは、サンフランシスコで新しい人生をスタートした。時代は、LSDや大麻でトリップしまくるヒッピー文化の全盛期。ヒッピーの震源地とされていたサンフランシスコで、マンソンは、影響を受けやすい純粋な若者を選び、幻覚剤を与え、目をじっと見つめ、こう繰り返した。

「『思考を捨てろ。俺についてこい。素晴らしい世界に連れていってやる』。トリップの最中、彼にそう囁かれ続けられた。彼の言葉は何でも信じられた。そういえば、マンソンがトリップしているのは一度も見たことがなかったわ」(元信者パトリシア・クレンウィンケル)

 幻覚だけではなかった。マンソンは優しく包み込むような、とろけるようなセックスで、心に傷を負った女性たちを虜にしていったのだ。男性信者には、美しい女性信者を差し出した。

 マンソンは、マンソン・ファミリー信者の心を離さぬようジプシーのように移動し続け、麻薬、乱交三昧の楽しい生活を与えた。ビーチ・ボーイズのメンバー、デニス・ウィルソンが、ヒッチハイクした信者2人を車に乗せ、マンソンへと導かれたのもこの頃だ。デニスは信者にはならなかったものの、マンソンに興味を持ち、マンソンとビーチ・ボーイズをコラボさせようと企画した。大喜びしたマンソンだったが、結局実現には至らず、「音楽社会からも拒絶された」と恨むようになる。

 1968年、24人の信者と共にロサンゼルス郊外の砂漠にある映画撮影所跡地に移り住んだマンソンは、LSDの量を増やし、信者自身の意思を完全に捨てさせた。女性信者2人に子供を産ませ、カルト色と支配力を強めていったマンソンは、集団生活をしている家で、ビートルズの「ヘルター・スケルター」を流すようになった。そして、「これは、白人と黒人の人種戦争の予言ソングだ」「1969年の夏にヘルター・スケルターが起きる。終末戦争、アルマゲドンだ」「グルであるオレとオレを信じるものだけが救われる」と繰り返し言い、洗脳した。

 しかし、1969年の夏になっても何も起こらなかった。不安がる信者にマンソンは「ヘルター・スケルターは、選ばれたオレたちの手で起こさなければならないのだ!」と言い放った。

 7月末、マンソンは、ボビー・ボーソレイユ(当時22歳)とスーザン・アトキンズ(当時21歳)を引き連れ、マンソン・ファミリーに麻薬を売っていた音楽教師のゲリー・ヒンマン宅を訪問。信者になり財産を差し出すよう求めたが、拒否され、マンソンはゲリーを椅子に縛り耳をそぎ落とし、ボビーに目配せし、その場を去った。後始末を任されたと感じたボビーはゲリーを刺し殺し、スーザンは、この犯行が、黒人解放を掲げたブラックパンサーの仕業だと思わせるよう、ゲリーの血で壁に「POLITICAL PIGGY」と書いた。

 間もなくして、車両盗難罪でボビーが逮捕され、他の女性信者もクレジットカード窃盗罪でしょっぴかれた。一人目の殺人を信者がスムーズに行ったことに、いける、と確信したマンソンは、信者が次々と逮捕されたのはヘルター・スケルターが始まったからだと言った。そして、1969年8月9日と10日。マンソンに最も服従していた敬虔な信者たちが、世間を震撼させたテート=ラビアンカ事件を起こしたのである。

 冒頭で触れたスーザンの告白のような自白と警察の捜査により、1969年12月、マンソン、スーザン、パトリシア(当時20歳)、レスリー・バン・ホーテン(当時18歳)、テックス・ワトソン(当時24歳)が、テート=ラビアンカ事件の実行犯として逮捕された。公判は、1970年6月15日に始まり、マンソン・ファミリーの一大スペクタクル・ショーが全米に向けて放送された。157センチと小柄だが、鋭い眼力を持つマンソンは、マスコミが何をすると喜ぶのか熟知しており、カメラに向かってポーズを取り、問いかけにも気さくに答えた。

 スーザン、パトリシア、レスリーの三人娘は、マンソンが作詞作曲した歌を口ずさみながら裁判所に入り、いかにマンソンが素晴らしいかを説いた。残された信者たちも裁判所の外でマンソンの無実を訴えるデモを行った。カリスマ的なマンソンに惚れて、裁判中にファミリー入りした若者たちも少なくなかったという。そして、7月の終わりに、マンソンは額に鉤十字を彫った。

 「オレはお前らの社会から抹殺された、排除された人間だ。この十字は、それを象徴するものである」(マンソン)

 翌週末にスーザン、パトリシア、レスリーも額に鉤十字を彫った。身柄を拘束されながらも、信者たちの心をコントロールし続けるマンソンに、世間は驚愕した。自分たちも、いつかマンソンに洗脳されてしまうのではないかと恐れるようになったのだ。裁判の真っ最中である8月3日に、ニクソン大統領が「マンソンは有罪だ」と公式発言したのも、このような背景があったからである。マンソンのパフォーマンスは素晴らしく、10月5日の公判では、マンソンが机に飛び乗り裁判官に詰め寄り大きな話題になった。

 実際に殺人を犯したわけでもなく、殺人現場に居合わせてもいないマンソンを有罪にすることは困難だとされたが、洗脳から解けた一人の元女性信者が証言台に立ち、「全ての責任はマンソンにある」と証言したことにより状況は一転。1971年1月25日、マンソンを始めとする5人全員が有罪判決を受け、4月19日に死刑が確定、10月に服役がスタートした。1972年、カリフォルニア州は死刑を廃止したためマンソンたちは終身刑に軽減。2009年に病死したスーザン以外は今もなお、刑務所の中にいる。塀の中に入り、公に話すことも禁じられていたマンソンだが、ファミリーは一時期、拡大した。死刑が確定しても献身的な信者は無実を信じ、飛行機ハイジャック計画を立てたとも伝えられている。

 21世紀になった今も、社会からドロップアウトした若者たちから反社会的な象徴として崇められているマンソン。服役して40年が経つ今も、マンソンを反社会のリーダーとして信仰する人は多く、毎年6万通のファンレターが刑務所に届けられるという。すたれることのないカリスマ性を放つ彼を、アメリカは悪魔として恐れ続けている。






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